2023年7月12日

脱却

 
「自分よりも苦労している人はいくらでもいる」と思えるようになったのは、逆説的だが「これ以上ない」と感じる苦痛を経験したあとだった。

どうしても引受けねばならぬものがこの世にはあり、それが平気で自分の外からやってくる。
いや、何事によらずすべては始めからそういうものだったのだ。
そんな世界のありのままの姿を体感し、ようやく盲目から目覚め人の世の入り口に立てた。

自分の恵まれた点に目がいかないうちは、他者の戦いに目がいくことも決してない。
「私よりも苦労している人はいくらでもいる」と言葉では知っていても、そもそも人のことなど眼中にないという状況はよくある。

盲目は打破しねばならないものなのか、の議論もあろう。
ただ思うに、盲目を切り開いて進む道こそ人間として生まれた意義を最大に満たしてくれる、人間にとって最も贅沢なプロセスである気がする。



2023年4月14日

哲学

日常のほとんどの場所に、哲学思想は不要である。
1日の大部分は「いつも通り」で構成され、惰性で過ごす時間が圧倒的に多いのだ。

一方、哲学思想と呼ばれるものの方も、実用性をもつものはごく一部分だろう。

必要で有用な哲学思想とは何であろうか。それは、
『自分しか頼るものがない状況下で「自分がすべき事」への注力の助けになる』思想

ではないだろうか。



2020年12月18日

親愛

親愛というのは
それのみが独立して存在するものではなく
義務めいたものや試験めいたものを帯びるものでもなく

相手が大切にしている物事を自分も大切にしたいと思い、
相手が許さない物事を自分も許したくないと思う、
その気持ちのこと。

正面へ提示する「もの」でなく並び歩く「こと」。



あの人が私を大切にしてくれたから、私も私を大切にしたい。

並び歩いてくれたことに感謝して
これからも並び歩きたいと思うから。


2020年10月27日

気持ちに感謝

人に感謝すべきこと。

私がうれしく感じるのは、ささやかでも私を「大事に思ってくれた」ことだ。
私を尊重しフォローしてくれた、その気持ちに感謝したい。
私の心の奥へ届いてるのは相手のその「気持ち」であり「行動」ではない。

私を一瞬でも応援してくれた人がいたら、そのことを私は決して忘れたくない。

一生のうち、幾人からそういうものを受け取れるだろうか。


逆のことも言える。
自分が見栄としての善行を差し出したことはなかったか。
これからは打算やムリをすることなく、自然に心を込めたものだけでいこうと思う。

表面としての行動の奥の、そうした親愛のやりとり。
そのまわりに「絆」や「仲間」といった言葉が生まれる。
それらの言葉は好きでなかったし、今なお胡散臭いとも思っている。
ただ、それはそれで一つの自然にはちがいない。

応援してくれた「心」に感謝し、残りは全て自分の責任として背負う。

そんなふうに生きたいと最近は思う。


2020年6月19日

奔流のなか


繊細すぎるであろう私が
健康な人々の自由でポジティブな思考・言動に抱いてきた印象は
一般人がサイコパスに感じるそれにおそらく近い「唐突」「脅威」である。

それほどまでに感じる隔たりが、いつも私を恐怖させた。
恐ろしいものが普通なものとして提示される日々の中、
私には自分が感じる恐怖の意味、あるいはその存在さえ、長い間曖昧だった。

まわりがいかに問題なく回っていようが
「自分が恐怖している」ということは紛れもない事実であり、
そしてとりわけ目を向けるべき事実であった。

自分の認識が世界の主流と共有されるという保障は全くない。
かつ、その共有されていないという事実がそう分かるよう示される保障もない。

世界のその保障のなさに対する徹底的な理解こそ
「人(私)には人(私)の"片づけるべき順序"がある」という重要事実に到達するための第一歩だった。


2020年4月2日

習慣


人間は習慣の生き物である。そのとおりだ。

習慣は私が管理するものだが、一方で習慣が私を管理してくれる側面も重視したい。
やればいい・やれば終わりではなく、やっただけ返ってくる。
習慣を整理するだけで、生活の諸々の判断や実感などが良くなる。
これは紛れもない事実だ。

細かい思考の整理は休みにして、習慣の改善に力を入れてみる。
(これは省エネにも繋がる。)
万策尽きたように思える状況であっても、習慣の整理から突破口が開けることは多いように思う。

習慣を経由しながら全体が正しい方へ進んでいく。
そのような流れを意識したいと思う。


2020年3月5日

静止

 
やめるべきことをやめようと努力する時間と

すべき事をしようと努力する時間

それらと別に 第3の「何も為さない」時間を設けたい。